生きていく上で最も大切なこと

A: ねぇ、人間にとって生きていく上で最も大切なことってなんだと思う?

 

B: そうだなあ。愛、とか?現実的に言うとお金、かな?

 

A: どちらも正解のような気がするね。でも愛さえあれば生きていけるかというと必ずしもそうは言えない気もするね。お金だってそうだ。

 

B: じゃあ何が一番大事なの?

 

A: 必要とされることじゃないかなあ、たぶん。それを愛と呼ぶこともあるかもしれないけど、愛というよりもっと広くて、時に浅い。でも必要なこと。自分の死は自分だけでは完結しないかもしれないな。そう思えること。

 

B: 必要とされさえすれば死ぬのを踏みとどまれるかな。

 

A: わからない。でも生きる意味って自分のためだけにしない方がいい気がする。

 

B: それはそうかも。自分が立ち止まった時、また動き出すには外からの力が必要なこともあるもんね。でも、必要と利用ってすごく似ているよね。

 

A: 利用されてるって感じたら、それはむしろ逆効果になってしまうかもしれないね。でもそうすると必要と利用の違いって何?

 

B: わからないな。相手の力を信じてるかどうか、とかどうかな。単なる思いつきだけれど。

 

A: 抽象的な言い方だなあ、でもわかる気もする。

 

B: とにかく、自分の代わりなんていくらでもいるこの世の中で、例えそのローカルな場所限定であってもその人が必要な仕組みを作っていくことが大切なんじゃないのかな。

 

A: むしろ、何事もネットでグローバルに繋がってしまう時代だからこそ積極的にローカルな空間を作ることも必要なのかもね。

 

共感性のコントロール

 目の前に困ってる人がいたら手を差し伸べよう。世の中には自分たちよりもずっと貧しい暮らしをしている人も沢山いて、今ここにいる有難みを噛み締めながら生きていきましょう。相手の気持ちに立って考えることを忘れずに、相手を思いやりましょう。

 社会的な動物であり、一人で生きていくことなど到底できない人間にとって共感とは必要不可欠な能力だ。相手に共感し、また相手に共感されることによって優しさや憐れみ、恵み、情けが生まれる。そしてそれらがなければ協力などとても出来ないことだろう。

 しかし、こと物心がついてくると、事情が少し変わってくる。子供の頃の小さな身の回りで完結する世界では時折目に入るものに思いをめぐらせるだけで良かった。しかし、時が経つにつれ世界は広がり、世界は自分では把握しきれないほど広いことを知る。そこで迷うのだ。自分は一体、何にどこまで共感するべきなのだろう。

 全てに共感することは難しく、また可能であったとしても段々と身動きが取れなくなり、生きづらい。そして、共感することが必ずしも最善策かと言うとそうでないこともある。昨今コロナ禍において、トロッコ問題が再燃され、度々話題に登ったことからもわかる。

 しかしまた、だからと言ってサイコに振る舞い、合理性、損得においてのみ動くのも無理がある。一部の人を除き、その生き方もまた生きづらいのだ。

 そうなると、何に共感し、何を据え置くか、非常に大切になってくる。また、いつ共感し、いつ共感しないか、も大切な気がする。とはいえ、共感とは人間の感情の1つであるので、実際に目の前に起こった事象に対し、これは共感する、これは共感しないなどという判断を下すことは非常に難しく、そんなことする必要はない。ここで大切になってくるのは自分にインプットされる情報量をコントロールすることだ。

 スマホを使えば絶え間なく押し寄せてくる情勢にそのまま身体を預けることは危険だ。気付けば外へ外へ、遠くへ遠くへと認識を向けがちな毎日だが、内側や自分のほんの近くの身の回りを眺めてみると少し心に平和が訪れる気がする。

金木犀の香り

 何気なく夜散歩して、ふらっと公園に立ち寄って園内を1周していたらどこからともなく金木犀の香りがした。街頭もそう多くない公園で、足元さえおぼつかない。そしてここまで公園、公園と言ってるとおり名前も知らない公園である。

 その金木犀はどこにあるのか姿形もよく分からない。そしてこの散歩は金木犀を目的にしていたわけではない。でも、いやだからこそ、この偶然の出会いに価値がある気がした。

 平日の昼間、目の前のことから逃げて小洒落たカフェにふらっと入ると常連のような女性が窓際の席で上品に読書をしている。もちろん、それはそれでとても素敵な光景だ。彼女にとっては当たり前のことかもしれない。だが、ひねくれてる僕はその姿を見た時、無理してないかな。と思った。

その光景は成り行きが生み出したものなんだろうか。平凡で退屈な日常に嫌気が差して、誰もが羨みそうな優雅で可憐な1日を過ごしながら時間を潰す。それは本当に自分がやりたいことではなく、こんな過ごし方素敵だな、そう思った自分の中の理想の自分をただなぞっているだけではないのか。そんな気がしてしまった。

 時には背伸びして、なりたい自分を体現しようとすることも大切なことだし、必要なことだと思う。だが、肩の荷を下ろすというか、別に目的意識を持つことなく、かっこいい自分に浸ることなく、一切成り行きで進んでみる。どちらかというと現代ではそちらの方が必要な気がしてくる。

 目的意識とは大切なようでいて、本質ではないことに気付く。あくまで決める必要があるのは進む方角だけで、目的地がどんな場所だろうと想像しながら歩くのはもったいない気がしてしまう今日この頃である。

人付き合いの難しさ

 何かを好きになることと嫌いになることでは執着、価値の定量という意味では同じだが、価値基準の採点方式には明確な違いがあるような気がする。

 好きという判断における採点法は加点式であり、好きな要素がそのほとんどは無意識、何となくという言葉で表され総合的な採点であることが多い。

 一方で、嫌いとなると、途端に減点式になってしまう。それゆえ、例え嫌いな点が1つであってもその1点が決定的なものである場合、嫌うには十分となる。

 そのため、好きである理由は探す必要があるが、嫌いである理由は出てきやすい。嫌いとは総合的な採点ではないからだ。逆に言うと、物事を総合的に、全体として好きなところ、嫌いなところ、良いところ、悪いところと考え始めると、意外と嫌いなものはなくなっていく気がする。良いところが目に入ると、どうしても大目に見たくなってしまうのだ。これはこと人間関係において良くあることで、その人をずっと嫌いでいたいなら徹底して距離を置いて関わらないことだ。関わりを持つと、どうしても1つぐらい良いところが見えてきて、完全に嫌うことが出来なくなり、なんならその人を嫌ってしまってるという罪悪感まで発生してしまう。

 人間関係を整理し、付き合いのある人は少しでいい。そういう生き方をする場合、人を切る勇気を持つことより、人を嫌いでい続けられるような工夫を凝らすことの方が大切な気さえしてきてしまう。

 

優れた小説家は優れた脚本家であるとは限らない。また優れた長編作家は優れた短編作家とは限らない。

 自分の好きな作家に辻村深月という人がいる。彼女の作る物語が好きだ。作品ごとに好みの差はあるが、駄作であると感じたことはこれまでなかった。

 また同じくして、自分の好きな作品にドラえもんがある。そう、あのドラえもんだ。みんなが知っているやつだ。恥ずかしながら漫画ではあまり読み込んでおらず、劇場版というか、映画版のドラえもんが好きだ。脚本を藤子・F・不二雄さんが担当し、監督を芝山努さんが担当していた時代が特に好きだ。1番古い記憶は幼い頃TSUTAYAで借りてきたビデオを何度も何度も見ていた記憶だ。その後、大人になった後に見返すことが何度かあったが、やはり面白い。映像の古さは当然感じるのだが、しっかりと話に伏線が張られていたり、フィクションであるはずのドラえもんの冒険が現実の環境問題や歴史、科学に繋がっている。いわゆる藤子・F・不二雄ワールド全開のSFだ、と思う。

ここで言うSFとはもちろんサイエンスフィクションという意味でのSF、つまりは近未来であったり現在の科学技術では到底不可能なことなのだがそれが実現した世界において展開される物語であり、それはあくまで現実から始まり、現実にしっかりと着地するものであり、また一方で "すこしふしぎ" という意味でのSF、即ち上記した程のシリアスさや難解さはなく、あくまでドラえもんという枠組みを壊すことなく、展開される物語である2つの意味を含有している。

 そして、この僕の好きな作家と好きな作品が交わった瞬間がある。それが、2019年に公開された映画ドラえもん のび太の月面探査機である。ドラえもんが「新」になった後はしばらく距離を置いていたが、辻村深月がどういったドラえもんを描くのかと気になり、アマプラで視聴した。気になると言っても映画館で見ずに、サブスクになってから見るあたり、いいのやら、悪いのやら・・・。

 

そしてわくわくしながら見ていたのだが、開始30分もしないうちに少し飽きてくる。しかし、アニメや映画の始まりというものは退屈であることも多い。かの名作魔法少女まどかマギカだって本領発揮は3話からだったではないか。そんな思いで見進めてみたものの、やはり見ていて退屈してきてしまう。というかつまらない。ドラえもんの冒険最中のわくわく感が少し弱い。のび太をはじめとする、メインキャラの心理描写や演技がやはり弱い。ありきたりで薄っぺらな感じがしてしまう。僕は辻村深月の心理描写が感性が、世界観が好きだったのだが。あれ?と言った具合だ。

イクスキューズはたくさんある。そもそも過去作でドラえもんはあらゆる冒険を終えていて、開拓していないところはもうほとんど残っていない。また、映画に脚本家はどの程度介入出来るのか、どの程度制約があるのかもわからない。だが、一番はそもそも映画と小説とは似て非なるものだということが大きいのだと思う。

小説とは、その人の哲学そのものだ。客観的視点、三人称(天の声)が存在することもあるが、多くは一人称によって進行する。景色も人も、何もかもをその人のフィルターを通しながら、主人公があれこれと翻弄されながらも思索する過程を読者は追っていくのだ。一方で、映画は違う。もちろん大抵の場合は主人公が設定されているが、主人公の心中は必ずしも語られるとは限らない。主人公の心の声が聴こえてくるのは新海誠の自分語り、鬼滅の刃など最近のことだ。通常はキャラは言葉でなく、行動や演技で伝える。もちろんセリフもあるが、それはせきららに内面を語るわけではない。そのため、小説と映画は少し楽しみ方が違う。小説では、作者の、主人公の解釈に共感出来るか、自分ならどうかを考えたり、主人公以外の登場人物の心理を推測することで物語の深みを感じる。一方で映画はもっとずっと解釈が多様であり、アートに寄っている。主人公がなぜこんな態度を取ったのか、この行動をしたのか、このセリフを吐いたのか、自分で考え、自分なりに納得する作業を楽しむのだ。つまり、自分の中の曖昧な感情や、世の中のあれこれに対する解釈を自分なりに言語化出来る力が作家には必要であり、映画ではそれを如何に抽象的な、言葉で表さず、いや正確に言うと表せず、場面やシナリオでそれを見せられるか、という力が必要になる。

そのため、伝えたいことを言語化する能力と、物語として結晶化させる能力は全く別物である。辻村さんは言葉以外の所で、映画という映像と動きがある作品の中で、前作を踏襲しつつ、さらに目新しい内容を加えて、アートとして結晶化させる、その力が足りなかった、あるいはまだ未熟だったのではないか。

 

だが考えてみれば当たり前の話だ。優れた野球選手が優れたサッカー選手とは限らない。良い男性が良い父親とは限らない。その当たり前のことを忘れないようにしたい。それでもやはり辻村深月さんは自分の中で優れた小説家だ。

 

同様のことが、つい先日もあった。僕は恩田陸もフェイバリットな作家の一人で、彼女の作品ではずれを引いたことがないとばかりに全幅の信頼を置いていた。とあるプチ旅行のお供として慌てて寄った小さな書店で見つけた恩田陸の作品。中身をあまり見ないまま、買ってしまった。結果から言うとそれが初めて引いたはずれだった。その小説は短編集で、短編と言っても長さはショートショートと呼べるほどとても短いものであった。さらにその何作かは別の長編作品のスピンオフだったものも関係しているのかも。とにかく恩田陸に短編は似合わない、と思ってしまった。通常長編になればなるほど、広げた風呂敷を畳むことは難しい。しかし、恩田陸は逆だった。彼女はあのさわやかで、綺麗で、それでいて重厚な、醜悪な話をさらっと書いて、それでいて納得のいく後味で終わらしてくれる。短編ではその楽しみがぐっと減ってしまっていた。

優れた長編作家は優れた短編作家とは限らない。そういうことだろう。

グレースケール

 最近、悩むことはもちろんあるけれど、どうしたらいいかわからなくて悩むことがあまりなくなった。最近というか気付いたら、か。

 人間はわからないって状態が不安なわけで、それが勉強やら知的好奇心を満たす際の原動力となっていると思うわけだけれど、世の中大抵の事にわかりやすい理由なんてない。だって世の中は複雑系だもの。理由なんて無数にあるし、それらが作用し合って結果を作ってる。

 けど、ある程度の年数生きてくるとそういった不安が少しずつ和らぐのだろう。浅薄な答えがなくとも、答えを求めがちな自分に目が向いてくる。これをものすごく高次元で行うと悟りになるかいねって感じ。

 こういうのって歳を取ればとるほど進むものな気がする。

 多分だけど、人生の長きに渡り苦行に身を投じる仏教徒の人とか、その始まりのゴータマも、もしかすると苦行をしてもしなくても、その歳になれば同じような考えに至っていたんじゃないかな。そう言うと身も蓋もないけれど。

 世の中を白黒じゃなく、グレースケールの中掻き分けて、カラフルではなくともモノクロの中で解像度をあげていければ、人生これからも楽しめる気がする。

厳しさと優しさ

 すごい昔のことを思い出した。

明日はとある重めの科目の中間テスト、同級生たちは真面目な奴らばかりだから恐らくしっかりと勉強しているであろう。なぜかグループ学習を皆したがる。4人で使うには少し心許ないファミレスのテーブルを窮屈そうに使う。集中の切れた誰かがすぐに軽口を叩く。それは非効率なようでいて、やる気を少しだけ出して勉強に向かうための必要悪なのだろう。或いは皆と同じ境遇であることを確認して自分を安心させているのかもしれない。自分はどうも誰かと勉強することが苦手だ。そもそも授業も苦手だ。唯我独尊、あらゆることを自分のペースで進めたい超マイペース人間の自分は他者に合わせることがストレスだ。そして他者といるとそれなりに相手に合わせてしまう。自分を貫くでもなく、自分を完全に偽れるでもなく、人間という生き物を体現したような人物である。だから今日も僕は1人で、誰とも遭遇しない少し離れたカフェで勉強に向かい、テストが近付いてきた頃にだけ捗る読書に手を出していたところだった。

 その時読んでいた小説に水泳の話が出てきた。その内容自体にはさして響くものはなかった。しかし、偶然に自分の遠い過去を蘇らせてくれた。自分は幼い頃、水泳を習っていた。どちらかと言えば競泳と言った方が正しくて、4泳法を泳ぐことが目的ではなく、より美しく、より速く泳ぐことが目的だった。

 幼稚園児にとって、25mというプールの端から端までの距離はとてつもなく長い。その当時、クロールを始め、ある程度泳ぎ方をマスターしていた自分であったが、泳ぐことを継続することはとても苦しかった。溺れるわけではない、泳げないわけではない。だからこそ、限界は肉体的なもの、そして精神的なものに起因する。あと少し、もう少しならと自分を励ました分だけ先に泳ぎ進めることが出来るのだ。

僕の授業を担当してくれる先生は固定ではなく、日によって色んな先生がメニューを指示してくれる。優しい先生だったら楽しく楽なメニューだし、そうではない先生だと内心嫌だなと思いながら練習することになる。

 その中で、とあるおばさんの先生がいた。今でも名前はハッキリと覚えているが、ここでは先生とだけにしておく。その先生は端的に言うと厳しかった。途中の練習は他の先生とはそう変わらないが、最後に必ず25mをノンストップで泳がせるのだ。当時の僕は25mがギリギリ泳ぐことが出来るが、かなり苦しみながら、ヘロヘロになりながらといった状態であった。しかもその試練がある程度練習して疲れた体にのしかかってくるのだから僕にとってはたまらなかった。今日の授業がその先生とわかった瞬間から授業最後の25mのことが頭の中にぶわっと広がって消えないのだ。そして想像していた通りのことが案の定起こる。今でもハッキリと覚えている程その当時はその事が嫌だった。逃げ出したかった。けど…その経験があったから自分は次のステップに進めたのかも。限界に挑めたのかもしれない。今だからこそそう思える。実際にどうだったのかわからない。僕は無理して25mを泳がなくとも、体の成長と共に順調に泳げる距離は伸びていっただろうし、その経験が今に活きているかは不透明だ。

 今の時代、何かとハラスメントであったり、褒めて伸ばすが推奨されたりと厳しく接される場面は少ない。辛いことは辛いと言っていいし、自分に不快なことは不快だと声を上げて場を改善させるべきだ。そういった方向性に舵を切り出している。もし今の時代にその先生がいたら、同じような態度で接してくれただろうか。僕は25m泳ぎきっていただろうか。そういった疑問が浮かぶ。

 辛く、苦しい、ある種トラウマのような感情と共に過去を思い出す。けれどなぜか、その感情と共に、先生に対する感謝の気持ちも湧き上がってくるのだ。