優れた小説家は優れた脚本家であるとは限らない。また優れた長編作家は優れた短編作家とは限らない。

 自分の好きな作家に辻村深月という人がいる。彼女の作る物語が好きだ。作品ごとに好みの差はあるが、駄作であると感じたことはこれまでなかった。

 また同じくして、自分の好きな作品にドラえもんがある。そう、あのドラえもんだ。みんなが知っているやつだ。恥ずかしながら漫画ではあまり読み込んでおらず、劇場版というか、映画版のドラえもんが好きだ。脚本を藤子・F・不二雄さんが担当し、監督を芝山努さんが担当していた時代が特に好きだ。1番古い記憶は幼い頃TSUTAYAで借りてきたビデオを何度も何度も見ていた記憶だ。その後、大人になった後に見返すことが何度かあったが、やはり面白い。映像の古さは当然感じるのだが、しっかりと話に伏線が張られていたり、フィクションであるはずのドラえもんの冒険が現実の環境問題や歴史、科学に繋がっている。いわゆる藤子・F・不二雄ワールド全開のSFだ、と思う。

ここで言うSFとはもちろんサイエンスフィクションという意味でのSF、つまりは近未来であったり現在の科学技術では到底不可能なことなのだがそれが実現した世界において展開される物語であり、それはあくまで現実から始まり、現実にしっかりと着地するものであり、また一方で "すこしふしぎ" という意味でのSF、即ち上記した程のシリアスさや難解さはなく、あくまでドラえもんという枠組みを壊すことなく、展開される物語である2つの意味を含有している。

 そして、この僕の好きな作家と好きな作品が交わった瞬間がある。それが、2019年に公開された映画ドラえもん のび太の月面探査機である。ドラえもんが「新」になった後はしばらく距離を置いていたが、辻村深月がどういったドラえもんを描くのかと気になり、アマプラで視聴した。気になると言っても映画館で見ずに、サブスクになってから見るあたり、いいのやら、悪いのやら・・・。

 

そしてわくわくしながら見ていたのだが、開始30分もしないうちに少し飽きてくる。しかし、アニメや映画の始まりというものは退屈であることも多い。かの名作魔法少女まどかマギカだって本領発揮は3話からだったではないか。そんな思いで見進めてみたものの、やはり見ていて退屈してきてしまう。というかつまらない。ドラえもんの冒険最中のわくわく感が少し弱い。のび太をはじめとする、メインキャラの心理描写や演技がやはり弱い。ありきたりで薄っぺらな感じがしてしまう。僕は辻村深月の心理描写が感性が、世界観が好きだったのだが。あれ?と言った具合だ。

イクスキューズはたくさんある。そもそも過去作でドラえもんはあらゆる冒険を終えていて、開拓していないところはもうほとんど残っていない。また、映画に脚本家はどの程度介入出来るのか、どの程度制約があるのかもわからない。だが、一番はそもそも映画と小説とは似て非なるものだということが大きいのだと思う。

小説とは、その人の哲学そのものだ。客観的視点、三人称(天の声)が存在することもあるが、多くは一人称によって進行する。景色も人も、何もかもをその人のフィルターを通しながら、主人公があれこれと翻弄されながらも思索する過程を読者は追っていくのだ。一方で、映画は違う。もちろん大抵の場合は主人公が設定されているが、主人公の心中は必ずしも語られるとは限らない。主人公の心の声が聴こえてくるのは新海誠の自分語り、鬼滅の刃など最近のことだ。通常はキャラは言葉でなく、行動や演技で伝える。もちろんセリフもあるが、それはせきららに内面を語るわけではない。そのため、小説と映画は少し楽しみ方が違う。小説では、作者の、主人公の解釈に共感出来るか、自分ならどうかを考えたり、主人公以外の登場人物の心理を推測することで物語の深みを感じる。一方で映画はもっとずっと解釈が多様であり、アートに寄っている。主人公がなぜこんな態度を取ったのか、この行動をしたのか、このセリフを吐いたのか、自分で考え、自分なりに納得する作業を楽しむのだ。つまり、自分の中の曖昧な感情や、世の中のあれこれに対する解釈を自分なりに言語化出来る力が作家には必要であり、映画ではそれを如何に抽象的な、言葉で表さず、いや正確に言うと表せず、場面やシナリオでそれを見せられるか、という力が必要になる。

そのため、伝えたいことを言語化する能力と、物語として結晶化させる能力は全く別物である。辻村さんは言葉以外の所で、映画という映像と動きがある作品の中で、前作を踏襲しつつ、さらに目新しい内容を加えて、アートとして結晶化させる、その力が足りなかった、あるいはまだ未熟だったのではないか。

 

だが考えてみれば当たり前の話だ。優れた野球選手が優れたサッカー選手とは限らない。良い男性が良い父親とは限らない。その当たり前のことを忘れないようにしたい。それでもやはり辻村深月さんは自分の中で優れた小説家だ。

 

同様のことが、つい先日もあった。僕は恩田陸もフェイバリットな作家の一人で、彼女の作品ではずれを引いたことがないとばかりに全幅の信頼を置いていた。とあるプチ旅行のお供として慌てて寄った小さな書店で見つけた恩田陸の作品。中身をあまり見ないまま、買ってしまった。結果から言うとそれが初めて引いたはずれだった。その小説は短編集で、短編と言っても長さはショートショートと呼べるほどとても短いものであった。さらにその何作かは別の長編作品のスピンオフだったものも関係しているのかも。とにかく恩田陸に短編は似合わない、と思ってしまった。通常長編になればなるほど、広げた風呂敷を畳むことは難しい。しかし、恩田陸は逆だった。彼女はあのさわやかで、綺麗で、それでいて重厚な、醜悪な話をさらっと書いて、それでいて納得のいく後味で終わらしてくれる。短編ではその楽しみがぐっと減ってしまっていた。

優れた長編作家は優れた短編作家とは限らない。そういうことだろう。