共感性のコントロール

 目の前に困ってる人がいたら手を差し伸べよう。世の中には自分たちよりもずっと貧しい暮らしをしている人も沢山いて、今ここにいる有難みを噛み締めながら生きていきましょう。相手の気持ちに立って考えることを忘れずに、相手を思いやりましょう。

 社会的な動物であり、一人で生きていくことなど到底できない人間にとって共感とは必要不可欠な能力だ。相手に共感し、また相手に共感されることによって優しさや憐れみ、恵み、情けが生まれる。そしてそれらがなければ協力などとても出来ないことだろう。

 しかし、こと物心がついてくると、事情が少し変わってくる。子供の頃の小さな身の回りで完結する世界では時折目に入るものに思いをめぐらせるだけで良かった。しかし、時が経つにつれ世界は広がり、世界は自分では把握しきれないほど広いことを知る。そこで迷うのだ。自分は一体、何にどこまで共感するべきなのだろう。

 全てに共感することは難しく、また可能であったとしても段々と身動きが取れなくなり、生きづらい。そして、共感することが必ずしも最善策かと言うとそうでないこともある。昨今コロナ禍において、トロッコ問題が再燃され、度々話題に登ったことからもわかる。

 しかしまた、だからと言ってサイコに振る舞い、合理性、損得においてのみ動くのも無理がある。一部の人を除き、その生き方もまた生きづらいのだ。

 そうなると、何に共感し、何を据え置くか、非常に大切になってくる。また、いつ共感し、いつ共感しないか、も大切な気がする。とはいえ、共感とは人間の感情の1つであるので、実際に目の前に起こった事象に対し、これは共感する、これは共感しないなどという判断を下すことは非常に難しく、そんなことする必要はない。ここで大切になってくるのは自分にインプットされる情報量をコントロールすることだ。

 スマホを使えば絶え間なく押し寄せてくる情勢にそのまま身体を預けることは危険だ。気付けば外へ外へ、遠くへ遠くへと認識を向けがちな毎日だが、内側や自分のほんの近くの身の回りを眺めてみると少し心に平和が訪れる気がする。