知らぬが仏、知るが煩悩

 誰しもが、自分が育ってきた環境でしか、この世界を知り得ず、多様性、多様性と謳われるこのご時世だが、多様化し過ぎたこの時代では、コンセンサスを得ることはどんどん難しくなっている。

 僕ははっきり言って今まで温室育ちで、ある意味隔離されて生きてきた。幼稚園、小中高と比較的分別のある人達しかいなかったし、いじめなども0ではなかったが、仲間に入れてもらえないとか無視される、といった類で、教科書に落書きとか、殴る蹴る、などはなかった。

社会に少しずつ触れ始めた今でさえ、世間でしきりに騒がれるパワハラ、セクハラはメディアを通してしか知らない漠然としたものだ。想像することも難しい。自分には関係ないから、といって目を塞ぐのも心が痛い。でも、知ったからと言って自分に出来るのは知ったかぶりだけだ。

 知らぬが仏とはよく言ったもので、アフリカの子供がどれだけ恵まれないか、知ったところで、嘆いてみたところで、自分はちゃんと届くかもわからないお金を寄付することぐらいしか出来ないし、その子達を何とかするために自分の人生を捧げることが出来ないくらいには、どうでもいいことなのだ。

 ニュースに出てくる凄惨な事件だってそうだ。知ったところで、負の感情が湧き上がるだけ。知らない方がいいのではないか?自分の生きている日常の延長線上で非日常な出来事が実は絶え間なく起きていることは不都合な真実だ。

 今日バスに乗っていて降り際にハンカチを落とした人を慌てて追いかけた。この小さな小さな善行が積もり積もって、バタフライエフェクトみたいに大きな善行に繋がらないかな。世界平和を夢見るほど暇ではないけど、バカな妄想をするくらいには充実した日、そんな休日。