運び屋を見た

自分の中でいい映画と呼べる1つの基準が、その映画の終わりだったりする。終わりよければ全てよしと言うように、何事も結果が大事であるように、物語の結末、終わり方は非常に大切だ。風呂敷を広げるのが得意な人はたくさんいるが、上手く閉じれる人はなかなか見当たらない。広げれば広げるほど閉じるのも難しくなるし。

だから、僕は小説やマンガでもどちらかというと短編、マンガなら10巻以内だったり、作者が予め何巻で終わるか計算したものが完成度が高くて好きだ。

 

映画に話を戻す。

先日、運び屋を見た。僕はまだクリント・イーストウッドの若かりし頃の映画を見てないので年老いた渋味マシマシのイーストウッドしか知らない。グラン・トリノと同じく、あの口の悪いおじさんは相変わらず携帯嫌いだし、ぶっ飛んでてイカす。

イーストウッドの映画はどちらかというと暗い映画だと思う。でも、最後の終わり方は見事だと思う。ただのハッピーエンドではない。ある意味、バッドエンドで、後味の悪さもある。でも、そこにはほんのり温かいぬくもりがある。救いがあるのだ。

グラン・トリノでもウォルトは最後銃殺される。運び屋でも、アールストーンは最後には捕まり、刑務所内で恐らく生涯を終えるのだろう。しかし、タオとは親子のような家族のような、そして友人としての関係を築き、ウォルトの最後は幸せだったのではないだろうか。運び屋ではもっとわかりやすい。アールはずっと後悔していた家族との愛を最後には確かめることに成功したのだ。間に合ったのだ。

どちらも王道のストーリー展開で、とてもわかりやすいものながら、映画の世界に没入して、最後にはとても感動出来た。

 

捉え方によってはハッピーエンドにもアンハッピーエンドにも取れる。そんな映画が好きだ。