誰かの一日
旅行が好きだ。既に47都道府県の半分以上には遊びに行ったことがあるし、5つの県に少なくとも一年以上住んだことがある。本当に旅行を趣味にしている人やライフワークにしている人にはもちろん及ばない。でも、いろんな場所へ行くことが好きだから、少なくとも苦ではないからこんなにいろんな県に行ったことがあるのだろう。
観光地にももちろん行くが、だんだんと行く機会が減った。まったくその県に行っても行かないこともある。代わりにどうするのかと言うともっぱら散歩だ。とにかく歩く。街並みを見ながら。高いところに登って下を見下ろし、歩く人、その場所で今まさに生活を営んでいる人たちを見て思いを馳せる。この人は今どこに向かっているのだろう。今日は天気がいいからお散歩かな?そんなふうに特に何をするわけでもなく、でも少し歩くとその街の匂いを少し知れた気がして何だかそれだけで満たされてしまうんだ。
この歳でこれだから、10年後にはもっとおじさんになっていそう。もはや散歩すらせずに、ただどこか高級な宿に泊まって、何をするでもなく窓から庭を眺め、うたた寝から目覚めて思い出したかのように誰もいない湯船に浸かりに行く。あれ、何だか今やっても楽しめそうだぞ。
僕はまだ23なんだけどなあ。
何歳で何をやろうと別に何も問題ないとはもちろん思うけれど、若いうちにしか出来ないってことがある。それらをやらないで年老いてしまうことは何だかもったいない気もしてしまうからもどかしい。
温情
安い同情なんてしたくないし、知った気になるのも嫌だ。
けれど、どうしたって止められないこともある。
自分がいかに甘ちゃんで今まで特に大きな出来事もなくここまで来たか、を日々実感する。
ある意味、そのおかげで人との出会いは大切で、刺激になると思えるのかもしれない。
そうか、そんな大変なことがあったんだね。
辛かったね、あなたは強いね。
もし自分に何か少しでも出来ることがあればいいのだけれど...。
心からそう思っている。
この気持ちは同情でも共感でもないよね?
もっと根源的で純粋で醜い、でも少しやさしい気持ちであることを願う。
マスカレード
納豆が好きだ。納豆を食べる時はそりゃもちろん、かき混ぜる。でも白米と納豆を混ぜたり、卵焼きと納豆を混ぜたりするのは好きじゃない。あくまで、混ぜるのは納豆の中だけ。
学校で会う人は学校でだけ会いたいし、バイトで会う人はバイトだけ会いたいし、プライベートで会う人はプライベートだけ会いたい。
唯一垣根を越えることを許せるのは家族だけ。
どの場所にいる自分も自分だけれど、そこでの立ち回りやキャラや気持ちはすべて違う。
それぞれ別の並行世界を生きているイメージ。
どれがいいとか悪いとかはあまりなくて、それぞれ大切な場所であり、お互い不干渉でいたい。あまり立ち入って欲しくない。
そして、自分は一つや二つの世界に依存したくない。出来ることなら一つでも多く世界を持っていたい。バランスを取りながら、それぞれの世界を渡り歩きたい。
自分は何者でもないし、何者にもなりたくない。
Let it beにはじまり、レリゴーとかディスイズミーとか、ありのままでいいじゃないと宣う輩が多い。この前見た実写版アラジンもそんなメッセージが付加されてたな、そういえば。
別に勝手にどうぞって感じ。誰もあなたに自分を隠せなんて言った覚えはないよ。
ただ、自分はこのペルソナがたまらなく愛おしい。
運び屋を見た
自分の中でいい映画と呼べる1つの基準が、その映画の終わりだったりする。終わりよければ全てよしと言うように、何事も結果が大事であるように、物語の結末、終わり方は非常に大切だ。風呂敷を広げるのが得意な人はたくさんいるが、上手く閉じれる人はなかなか見当たらない。広げれば広げるほど閉じるのも難しくなるし。
だから、僕は小説やマンガでもどちらかというと短編、マンガなら10巻以内だったり、作者が予め何巻で終わるか計算したものが完成度が高くて好きだ。
映画に話を戻す。
先日、運び屋を見た。僕はまだクリント・イーストウッドの若かりし頃の映画を見てないので年老いた渋味マシマシのイーストウッドしか知らない。グラン・トリノと同じく、あの口の悪いおじさんは相変わらず携帯嫌いだし、ぶっ飛んでてイカす。
イーストウッドの映画はどちらかというと暗い映画だと思う。でも、最後の終わり方は見事だと思う。ただのハッピーエンドではない。ある意味、バッドエンドで、後味の悪さもある。でも、そこにはほんのり温かいぬくもりがある。救いがあるのだ。
グラン・トリノでもウォルトは最後銃殺される。運び屋でも、アールストーンは最後には捕まり、刑務所内で恐らく生涯を終えるのだろう。しかし、タオとは親子のような家族のような、そして友人としての関係を築き、ウォルトの最後は幸せだったのではないだろうか。運び屋ではもっとわかりやすい。アールはずっと後悔していた家族との愛を最後には確かめることに成功したのだ。間に合ったのだ。
どちらも王道のストーリー展開で、とてもわかりやすいものながら、映画の世界に没入して、最後にはとても感動出来た。
捉え方によってはハッピーエンドにもアンハッピーエンドにも取れる。そんな映画が好きだ。
小人閑居して不善を為す
世の中そんなに上手くいくはずないってのが自分のモットーです。
苦労せずして、あるいは苦労したとしても報われるとは限らないのです。
楽に痩せることなんてないし、聞き流すだけで英語は話せるようにならないし、これさえ食べれば幸せになるものなんてないし、これさえつければ身体能力が上がるなんてものはないし、サロンに入っても何も変わらないし、情報商材を買っても金は増えないし、宝くじを買っても当たりません。
はっきり言って全てバカで愚かなことだと思ってます。
親は宝くじを買ってるんじゃない。夢を買ってるんだなどどぬかしてますが。
夢は買うものでも、叶えるものでもねえんだよ!!
夢はただ見るもの。勝手に見てしまうものであって、それ以上でも以下でもない。
俺は夢見ることが好きです。夢のある話も大好き。でもだからこそ、必要以上に夢を過大評価しないようにしたい。現実を生きるならね。
復活のルルーシュを見てきた
映画のコードギアス 興道、叛道、皇道は実は見ていない。
噂では確かシャーリーが死んでない?とかだよね。確か。
シャーリーは大好きだけどさ、ユフィーしかりロロしかり重要人物であっても容赦なく死ぬところもまたコードギアスの良さだと思っていたから、「なんだかなあ」 とは思った。
とにかく、スピード感と展開の早さで悲しい事は起こって、手に入れては失っていくのだけどここで止まってはそれこそ元も子もない。最後まで駆け抜けるしかない。というのがアニメ版コードギアスだと思っていたから。
まあ、ともかく。復活のルルーシュは完全新作だから見に行ったわけです。
結論から言うと・・・
面白くなかった
というか、楽しみきれなかった。
まず、1番に思ったのは
コードギアス映画に向いてない!!!
上にスピード感と展開の早さ、と書いたけれどもう少し具体的に言うと、そのキモは緩急にあると思う。例えば、カレンとスザクはナイトメアが回が進む事にどんどん高度で速い戦いを繰り広げる。その攻撃の殴り合いは凄まじく速い。けれど、戦闘シーンの尺としては長く展開は遅い。
一方で、コードギアスは同時進行で様々な場所と人が動いて話が進むので、展開は早いのだけれど、様々な場面を差し込むので、スピード感は遅い。この2つをうまく使って、スピード感と場面転換を見所としてきたと思うのだが、映画だとこれがあまり生きない。
映画というのはどうしても時間が決まっている中で、起承転結をつけないといけないので、使える時間がとても限られてる。その結果、とにかく話の進行が早くて、ポンポンポンっと進むのだが、そこに今までコードギアスで出てきた主要人物を絡ませつつ、さらに序盤ではそのキャラクターが今何をしているか、だったりを視聴者に語る必要があるので、一つ一つのシーンが割と浅くて、入り込めない。その間に次のシーンへ飛んでしまう。逆に、ここのシーンはもっと、引っ張る所だろー。もっと間をとっても…と思う箇所もあったり。
つまり・・・詰め込みすぎ!
後、やはり、いろんな視聴者に見せたいからか、説明が多い。映画っぽくない。もっと匂わせるだけでいい、シーンがあったはず。
どのシーンもどのキャラもわかりやすく説明した結果、そのシーンだけで尺が大きくなり、ルルーシュとカレンの再会なんて実に物足りなかった。
次に、キャラに納得がいかない!
前半、記憶を失ってC2と共に度をしていた時のC2。いやいや、こんなキャラじゃないやろー!
いくら、記憶を失っているルルーシュに優しく接すると言っても、料理作って、食べさせてあげて、世話をして。何か後半には敵の通信ちゃちゃっとハッキングしちゃったりね。何でも屋かよ。ある程度のご都合主義はアニメなのだから、納得するけれど、「うーん。」 と首を何度か捻った。
1つ目とも共通して言えるのは、やはりオールスター的な感じで、かつての敵と今度は味方で戦うというのもコードギアスの醍醐味なので(コードギアスのアニメではたびたび戦いがチェスに喩えられていたが、どちらかと言うと将棋だよね。まあブリタニア→ブリテン→イギリス→西洋のイメージだからチェスなのはしょうがない)そう言った皆で不利な状態から戦うっていうのがファンサービスとして必要なのも理解出来るので、しょうがない気もする。
もう少し余韻が欲しかった。
いろいろと詰め込みすぎた結果、楽しめなかった、という感じ。
とはいえ、コードギアスの新作を見られたこと。感謝しかない。面白くなかったけどね!!
memento mori
都会はまた違うのかもしれないけど、田舎っていうのは新陳代謝が極端に悪くて、どこもかしこもそんなに変わらない。
極一部には、ここの場所はどんな店が入ってもすぐ潰れるなあ、って所はあるけど、基本的に街の風景は時間が止まっているようだ。
だからこそ、馴染みのあの店やかつての通学路など、いつもの風景が少し変わってしまうだけで少し寂しくなる。
いっそがらっと様変わりしてしまうなら清々しいのだけれど、やはり田舎。そういう訳にはいかない。
街も人も、いつまでもそのままでいて欲しい。