常に利己的である

 善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人をや

という一説が確か歎異抄に載っていたはずだ。

仏教に詳しいわけではないが、この逆説的な言葉には当時衝撃を受けたことを覚えている。

 親鸞絶対他力という救済方法のみが存在するとし、自力救済を否定した。彼は性悪説の立場に立ち、自分が善人などと思っている時点でその人はもう善人ではない、そもそも善も悪も兼ね備えているのが人間なのだから、慎み深く自己に正直に謙虚たれ、そう言っていたのだ(かなり曲解しております)。

この考え方は自分の価値観にとても共鳴するものだと思う。

 誰かのために何かをする、しかも見返りなど求めず。いつの時代もこの利他性は美徳とされてきた。気付けば体が動いていた、そういった心の底から湧き上がった誰かを思いやる心こそが大切である。そう言われている。しかし僕はこれに懐疑的だ。傲慢だとさえ思う。

 確かに、反射的であったり、見返りを考えずに誰かのために尽くすことは素敵なことだと思う。それは明らかに善だろう。しかし、これは本当に心の底から湧き上がったものなのか?単に何も考えていないだけではないか。気まぐれな本能、無意識によってたまたま起こした行動がたまたま誰かのためになっただけではないか?まともな人間であれば、行動とともにそれがどういう影響を自分に、あるいは他者に与えるかを考えることは当然だ。そしてその行為にそんなつもりはなくとも見返り、感謝や恩返し、もしくは恩を売っておきたいという邪な感情を抱くことだってあるはず。しかしそれでもこれは偽善だと認識した上で、なおも善行を行おうとする。これこそが一周まわって善なのではないか。

 自分とは常に利己的であり、常に自分が一番大切である。そういった前提認識を持っていないと、どんなに素晴らしいことも、欺瞞であり、傲慢な行為となってしまう。我々は謙虚でなければならない。あなたを思いやる気持ちも、あなたのための行動も、全ては自分のためなのだ。

知らぬが仏、知るが煩悩

 誰しもが、自分が育ってきた環境でしか、この世界を知り得ず、多様性、多様性と謳われるこのご時世だが、多様化し過ぎたこの時代では、コンセンサスを得ることはどんどん難しくなっている。

 僕ははっきり言って今まで温室育ちで、ある意味隔離されて生きてきた。幼稚園、小中高と比較的分別のある人達しかいなかったし、いじめなども0ではなかったが、仲間に入れてもらえないとか無視される、といった類で、教科書に落書きとか、殴る蹴る、などはなかった。

社会に少しずつ触れ始めた今でさえ、世間でしきりに騒がれるパワハラ、セクハラはメディアを通してしか知らない漠然としたものだ。想像することも難しい。自分には関係ないから、といって目を塞ぐのも心が痛い。でも、知ったからと言って自分に出来るのは知ったかぶりだけだ。

 知らぬが仏とはよく言ったもので、アフリカの子供がどれだけ恵まれないか、知ったところで、嘆いてみたところで、自分はちゃんと届くかもわからないお金を寄付することぐらいしか出来ないし、その子達を何とかするために自分の人生を捧げることが出来ないくらいには、どうでもいいことなのだ。

 ニュースに出てくる凄惨な事件だってそうだ。知ったところで、負の感情が湧き上がるだけ。知らない方がいいのではないか?自分の生きている日常の延長線上で非日常な出来事が実は絶え間なく起きていることは不都合な真実だ。

 今日バスに乗っていて降り際にハンカチを落とした人を慌てて追いかけた。この小さな小さな善行が積もり積もって、バタフライエフェクトみたいに大きな善行に繋がらないかな。世界平和を夢見るほど暇ではないけど、バカな妄想をするくらいには充実した日、そんな休日。

 

塞翁が馬の意味、本当にわかってる?

このブログのタイトルにもなっていて、座右の銘としても多く用いられているであろう言葉。

人間万事塞翁が馬

 

僕はこの言葉を初めて知った時、自分の人生観をかなり端的に表してくれている言葉だと思い、それ以来座右の銘である。たまたまだがうちの母方の叔父もこの言葉が座右の銘であったらしくそれを知ってなんとも嬉しくなった。

だが…この言葉の意味、どうも勘違いしてる人が多い気がする。

この言葉は、世の中には幸せなことがあった後には不幸せなことが、不幸せなことがあった後には幸せなことが起きる、という意味でもなければ、世の中には幸も不幸もない捉え方次第なのだ、というシェイクスピアの格言ともまた違う。うちの親に説明してもどうもわかってくれない。

そうではなくて。良い事が起こったからといって、その次に良い事が起きるとも、あるいは悪い事が起きるともわからない。因果関係なんてものはあくまで後付けの概念であって、良い事があったからといってまた期待したり、次に悪いことが起こるんじゃないかと不安になるのも違うということだ。

そうではなく淡々と生きる。結局起こってみるまで次また良い事が起こるのか、どうなのかはわからないのだから、人生はそういうものなのだから。そういう意味だと思うのだ。

何もかも運命だと受け入れて消極的に生きるのも嫌いだけど、耐え難い今を常に受け入れるよう努力しつつ、納得のいかない今を否定して、もがき苦しみたい。

多様性と平等

 多様性という言葉が世間に浸透してからまだ日は浅いが、その浸透度はかなりのものだと思う。ハリウッドなどのリメイク映画では不自然なほど男女比、人種比が整えられ、名作映画であってもストーリーは歪められ女性に配慮したものとなっている。ホモデウスにおいてハラリは人類は飢饉、疫病、戦争という人類誕生当初より今に至るまでの長年の課題を克服しつつあると述べていたが、差別をめぐる諸問題は解決の兆しはまだ恐らく当面見えないと思われる。むしろ、差別を克服した時、もう人は人だと言えないのではないか。

 Twitterでは連日、様々なバトルが繰り広げられているが、フェミニストとミソジニストの闘いは特に熱い。とどまることを知らないばかりか、日々苛烈を極めている。まあ今回はその事についてではない。もう少し広い視点で見る時の話だ。

 多様性という言葉を世間で持ち出されている時多くの場合、それは人はみな等しいので不当な区別なく接するべき、という意味で用いられているように感じる。男性と女性は生物学的には違うが、頭の作りや考え方、好みなどは生まれ持った時点ではみな変わらず、その後男らしさ、女らしさという社会が作ったものに犯されることによりジェンダーというものが生まれている。白人と黒人も差があるのは見た目だけで、白人だからどうとか、黒人だからどうということはないのだ。と信じられている。だがしかしこれが嘘なのは明白だ。例えば、男性の言語機能は左脳に集中していて、脳卒中などでこの部分が損傷するとたちまち話せなくなってしまうが、女性の場合、左脳が損傷してもある程度言語能力は維持される。また、逆に右脳が損傷した場合、男性は言語能力に影響はないが、女性は言語IQが明らかに低下することがわかっている。また、男性と女性では目の網膜にある、M細胞とP細胞の分布が異なる。これにより、女の子は赤やオレンジといったカラフルな色が好きで質感に富んだ人形で遊びたがる。一方、男の子はトラックや飛行機など動くものに強く惹かれる。これは明確なことであり、またもちろん個人差が存在するので、例外はもちろんある。黒人と白人、また黄色人種においてもその差は様々な実験から明らかである。あるいは、実験などしなくとも、100m走の決勝に出ているのがどの人種か、を見るだけでそんなことは明らかである。だのに、これがこと知能の話などになると途端に皆が否定しだす。男子の方が女子より頭がいい。いや、女子の方が男子より成績がいい。医学部女性差別問題が話題になった時、本筋からどんどん話が逸れて、そんな事ばかりが話題になった。ここではその結論や持論は据え置くが、とにかく多くの人が多様性という言葉を履き違えている気がしてならない。多様性とは平等から始まるものでは無い。むしろ、自分と相手が如何に違うか。その違いを徹底的に認識することこそが多様性である。男女平等などという言葉と一緒にされるものではない。むしろ、男女で、人種で、いや個性によって人はこれほどまでに異なっている。そしてその差が生まれるのは必然である。ということを認識することが多様性なのだ。平等に接するなどという意味のわからない言葉には吐き気がする。平等とかそんなことより、いかに自分という存在を、ひいては相手という存在を区別して認識出来るか、が必要とされると思う。(もちろん、だから自分は特別で、世界に一つだけの花だ!という思い上がった勘違いは危険だが)

 

 

失ったもの

それが何であれ、失った時の悲しみは大きい。この喪失感はどこから来るのか。

もしかしたら…ただこぼれ落ちた何かを憐れんでいるだけなのかもしれない。

この苦しみは本物だけれど。

ただ名残惜しいだけかもしれない。

ただ変化が怖いだけかもしれない。

ただ急に惜しくなっただけかもしれない。

ただ寂しいだけなのかもしれない。

きっとそうに違いない。

終わらない撮影会

 この前普段なら絶対に行かない部活の飲み会に顔を出した。追いコンも兼ねてあるので、多少はお世話になった先輩方にありがとうの意味も込めて、乗り気ではなかったが出席した。僕は飲み会が好きか嫌いかで言うと好きだ。もちろんメンツによるが。1日の16時間くらいは1人で過ごしたい癖に、2時間くらいは誰かと関わって話すことが好きだ。特にお酒はトークの摘みであり、スパイスであり、触媒であるので大切だ。世の男子と同じように、他愛もなくて抽象的で無意味な空想に花を咲かせる。それはとても大切な時間だ。しかしこの前の飲み会は違った。メンツにははなから期待はしていない。華々しい大学デビューからその初期衝動を忘れることなくはや数年と言った顔ぶれの数々。飲むことと他人にハラスメントを加えることが彼らの至上命題であり、果たさなければならない使命なのだろう。ここまで体育会系で育った僕はそれにも多少慣れているから今日もやり過ごすつもりだった。が…。

 飲み会が始まってからかれこれ2時間。撮影会が終わらないのだ。今や猫も杓子も持っているスマホに搭載された(圧倒的に無駄な)高機能カメラを使ってパシャリ。メンツを少しだけ変えてパシャリ。しかも、話が盛り上がったからその流れで撮ったというものでもない。まったく話していない人の所へ誰かが絡みに行き、そして謎の記念写真を撮るのだ。正直これが何の意味があるのかまったくわからなかった。そして飲み会が終われば今度はLINEに作られる大量のアルバム。時代に取り残された自分は本当に理解に苦しんだ。写真ってなんだろうね。

夜明けあと

なくしたものを確かめなくてはならない時もあるんだ

ずっとそばにいて欲しいと心に叫ぶ時もあるんだ

頭ではわかっていても受け入れられない時もあるんだ

 

この朝焼けをみて この朝焼けをみて

 

全部忘れたら

また思い出すんだ